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善光寺街道立峠に校歌が響く時

東筑摩塩尻校長会長 岩下 史弥

 前任校の聖南中学校に赴任していた時のことである。全校生徒と教職員が善光寺街道の難所「立峠」に立った。その日は、朝から秋晴れの好天となり、一行は会田支所から会田宿を抜け、やがて「善光寺西街道」の道標に出会う。何故か道標の上半分が無くなっている。ここから真っ直ぐに峠を目指す街道となっていく。暫く行くと会田宿の入り口に大きな石灯籠が見えてくる。「善光寺常夜燈」である。この石灯籠が宿の出入り口であり、ここにたどり着いてほっとしたり、ここから先はいよいよ難所の峠だと覚悟したり、きっと当時の旅人は様々な思いがあったことだろう。街道はいよいよ坂道が急になっていく。気がつけば目指す「立峠」は行く先前方にあり、街道は一直線にその峠に向かっているようだ。善光寺街道には大きな峠が三つある。松本から会田に抜ける「刈谷原峠」、会田から筑北に抜ける「立峠」、そして、麻績から更埴に抜ける「猿ヶ馬場峠」である。これらの峠は計ったように三つともぴったり標高一〇〇〇メートルになっている。そして、街道はできるだけ直線のルートを選択しているのか、難所を一気に抜けようという意図か、とにかく真っ直ぐに三つの峠に向かっている。立峠もまた、会田から真っ直ぐ本城へ抜けようとしている。街道沿いに立派な馬頭観音があり、善光寺街道でも有数のものらしい。手を合わせて無事に峠越えができることを祈る。ここからかなり急峻な峠道となる。恐らく荷馬車では抜けられない道となるため、馬に荷物を積み替えて、人も馬も心して超えたであろう。峠道はやはり一気に上がっていく。無駄のない行程であり、健脚であれば出来るだけ短時間に超えたいという気持ちが伝わってきそうだ。苦しい峠道はやがてぱっと峠の頂に着く。下から上がってくる生徒に「もう少しだ。」と励ましの声をかけたくなった。

 江戸時代の俳諧師松尾芭蕉もまた善光寺街道を歩いた。芭蕉にとって、古来、観月の名所だった信州・更科の姨捨山は、どうしても訪ねなくてはならない聖地だった。その旅は「俤や姨ひとりなく月の友」の句を生み、「更科紀行」となって伝わる。「更科紀行」では、木曽の山の中を抜けると、いきなり更科の里に入ってしまう。松本やその間の宿は跳び越えられてしまって何もでてこない。従って、会田宿から立峠を経て青柳宿(筑北村坂北)に向かう善光寺街道の様子を伝える記述はない。

 正岡子規は、松尾芭蕉の研究家としても知られているが、子規も明治二十四年六月に上野を出発し、芭蕉とは逆のルートで善光寺街道を歩いている。その紀行として「かけはしの記」を新聞「日本」に寄せた。子規は、青柳宿でも会田宿でもなく、本城村から立峠に向かう乱橋という小村に一夜の宿を取る。体制には屈しない孤高の人であった子規の性格からして、芭蕉の足跡を追体験するこの善光寺街道も、わざと芭蕉とは逆行したのではなかろうか。そして名も無い街道沿いの小村に泊まるというのも、子規ならではということになる。この乱橋に宿泊した様子を子規は「かけはしの記」に次のように記している。「此夜は乱橋といふあやしの小村に足をとどむ。あとより来りし四五人づれの旅客かにかくと談判の末一人十銭のはたごに定めて鄰の間にぞ入りける。晩餐を喰ふに塩辛き昆布の平など口にたまりて咽喉へは通らずまして鄰室のもてなし如何ならんと思ひやるに、たゞうまし柿鈎といふ声のみかしがましく聞ゆ。」全く正岡子規らしい文章である。

 私たちは遂に全校の全員で立峠に立った。立峠からは筑北の谷が一望できた。心から願っていた光景である。この峠に立ち、ふるさと「筑北村」を眼下にして生徒は、その時何を感じ思っただろう。

 聖南中学校全生徒・教職員で肩を組み校歌を歌った。校歌の歌詞に唱われた情景が全て峠から見渡せる。私も生徒も教職員も、この一瞬の全校生徒の校歌を忘れることはないだろうと思った。

 何十年か経ち、あの子たちが立派に成人した時に、「立峠で全校のみんなで校歌を歌ったなあ。」と思い出して語り合ってくれたら本望である。(両小野中学校)
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