東筑摩塩尻教育会基本情報
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東筑摩塩尻教育会の沿革

     東筑摩塩尻教育会は明治17年(1884)に設立されます。以来、120年余の歴史があります。当時の東筑摩郡は98町村、学校数102で、教員は訓導が150人、授業生450人でした。その年の夏、郡下の教員が集まった講習会の席上、教育会設立の気運が盛り上がり、教育会を設立します。その目的は「会員が教育上の学芸を研究して、教師としての資質の向上をはかることにありました。設立当時の名前は「東筑摩郡私立教育会」、「私立」という名に見るように、目的に賛同する有志によって構成されていました。「東筑摩郡私立教育会」の規則からは発足時の会員の意識の高さを伺い知ることができます。発足当時96名であった会員も翌年には231人となりました。

     教育会は郡下の教育を発展させるために、また、教師の職能を向上させるために、郡下を六つの地域にわけ、部会を設置し、地域の学校や職員と連携をとりながら、地域に結びついた活動を展開、父母や地域の人々の教育への関心を高めるために教師の自作の教材・教具や児童の学習による作品を展示した「教育品展覧会」を開催しました。郡下を部会に分けての活動は脈々と受け継がれ、現在に至っています。

     特に力を入れたのは会員相互の啓蒙を図るために「教育会雑誌」を編集・発行することでした。教育会雑誌の編集・発行は当時の県下のどの郡においても見られない画期的なことでした。明治20年までに25号まで発行されています。毎月ないしは隔月の発行、発行部数は300を越えています。発行部数の多さは郡内はもちろん郡外にも教育会の目的に賛同する教員が沢山いたということ、内容の質の高さを物語っているといえます。

     明治23年(1890)、教育会員によって信濃教育会東筑摩部会が設立されますが、当時は、すぐには信濃教育会の部会にはならなかったようです。東筑摩郡内には東筑摩私立教育会を名称変更した東筑摩教育交詢会と信濃教育会東筑摩部会二つの教育会が存在し、それぞれ独自の活動を展開しています。二つの教育会がやがて統一され、信濃教育会東筑摩教育交詢会となるのは明治31年(1898)のことで、統一までに9年の歳月を要しています。明治40年(1907)、松本が市制施行をし、松本市になり、東筑摩郡から離れます。翌年松本市教育会が分離、信濃教育会東筑摩教育交詢会が信濃教育会東筑摩部会となります。信濃教育会東筑摩部会は郡内37村の小学校教員によって組織されていました。信濃教育会の下部組織となった教育会は、東筑摩郡教育会の独自性を発揮しながらも、その多くは信濃教育会と動きを同じにするものでした。

     その中にあって、特筆すべき活動は西南支会を中心とした会津八一や折口信夫、柳田国男、杉浦重剛といった当時中央で一流の学者であると評価されていた人たちを招聘し、講演会を開催したことです。昭和5年、洗馬長興寺で行われた柳田国男の「民間伝承論」の講演会は日本民俗学の発祥となったと高く評価を受けています。

     戦後は、昭和22年「会員相互の研鑽を深めることにより、職能の向上ならびに教育の社会的振興を図ることを目的とした東筑摩教育会として新たに発足します。その時、郡内には1町35村がありました。その後、町村合併が各地で行われるようになり、東筑摩郡は縮小を余儀なくされます。昭和29年、松本市周辺の郡部が松本市に合併、34年には塩尻市が誕生、教育会も東筑摩塩尻教育会と名称を変更、平成の合併で松本市に四賀村が、明科町が安曇野市に、さらに波田町が松本市にとなったため、それまでの規模を縮小して現在に至っています。

     私立教育会として発足した教育会の精神、及び工夫された組織はその後の信濃教育会東筑摩部会になっても、また戦後東筑摩教育会及び東筑摩塩尻教育会になっても受け継がれていくことになります。特にその気風は教育会館前の物ぐさ太郎像が物語っているといわれます。物ぐさ太郎の生き様やその姿が教育会の姿や願いの象徴であるというのです。小さなことにくよくよしない、悠々として動じないところと、私立東筑摩教育会が、名前を変えながらもなかなか信濃教育会東筑摩部会とは同一歩調をとらずに独自な活動を続けたところが共通しているのだと考えられます。また、心中は広大豪壮な御殿に住む己を思う物ぐさ太郎の理想、常に高いものを求めてやまない教師の姿と重なるところがあると思います。

     都に出た物ぐさ太郎は、今までの物ぐさをやめ、二条家で実にかいがいしく働き、歌の才に秀でたことから、妻をめとり、高い位につき、ついには神として現れる。都に出て太郎自身がもつ本来の姿を発揮した物ぐさ太郎の姿こそ、教育の場で育てていく子どもの未来像であるのではないか。「たとえ頭がわるくても、手は不器用でもあてになる人信をおける人、すぐに役立つようなものをめざしてはいけない、三十年五十年たってはじめて世の中に役立つ人をつくることだ」と言わしめた手塚縫蔵の言葉に重なります。それは一言でいうと「磨けば光る」ということにほかならないと思います。

     『お伽草紙』には物ぐさ太郎が「東山道みちのくの末、信濃国十郡のその内に筑摩の郡あたらしの郷というところに不思議の男一人はべりける。」とあります。あたらしの郷は現在の松本市新村に推定されています。その他、東筑摩郡内にはその伝説をもつところがたくさん存在しています。

     ある先輩は「茫々漠々(一つのこと、小さなことににこだわらないおおらかな心・考え)としておおらかである。栄達を好まず、ただ真なるものを求めてやまない。乗り降りの早い人を好まない。権威に屈しない。地域を大切にし、他人をも大事に育てる」これが教育会が発足以来培ってきた気風であるといいます。広くおおらかな心をもちつつ、教育に掲げた高い理想、権威をも怖れず教育にかたむける情熱、真なるものを求めつづけた厳しい研鑽、これもまた、気風であるといいます。

     教育会館前庭に腹ばいになって寝そべり、日々悠々として、空を仰ぐ物ぐさ太郎像、その天を仰ぐその姿は無心に真と信とを醸成していく姿です。

     「まれまれはここにつどひて いにしへのあたらし人のごとく はらばへ」この言葉は、物ぐさ太郎を詠んだ折口信夫の言葉です。折口と教育会とのかかわりは大正8年に始まります。日本文学を中心とする講義は昭和28年になくなるまで続けられてきました。折口の学風に影響を受けた教員によって「折口先生の会」が生まれ、没後も会は続けられている。現在は松本市教育会となっている旧東筑摩郡内の小学校・中学校には深いつながりの証となる、折口の書いた短冊や色紙が数多く遺され宝となっています。

     大正末から仏教美術に関心を抱く教員が数多くあらわれ、それはやがて中央から一流の講師を招聘し、継続的な講習会や研究会をひらくまでに発展してきました。現在続く文化財同好会の前身ともいうべきものです。午前中は講義、午後は郡内の寺々をめぐって仏像や建築を実際みながら指導を受けるという現地演習の形がとられました。現在国の重要文化財や長野県宝に指定されている仏像の数々はこの講習会の中から発掘され、世に紹介されたものです。

 

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